海にふぐ山にわらび

北大路魯山人

1883‐1959(明治16‐昭和34)

陶芸家。京都上賀茂に生まれる。本名房次郎。誕生直後から愛情のない養父母のもとを転々とする。はじめ書家,篆刻(てんこく)家として名をなし,食客として長浜,京都,金沢などに逗留,各地で料理の研究もする。1925年東京赤坂山王台に同郷の友中村竹四郎と会員制の高級料亭〈星岡茶寮(ほしがおかさりよう)〉を開設,顧問兼料理長として天下に美食家の名をはせる。27年北鎌倉に星岡窯と住居を建設,荒川豊蔵などを招いてみずから食器の制作に専念する。

wikipedia:北大路魯山人

 ふしぎなような話であるが、最高の美食はまったく味が分らぬ。しかし、そこに無量の魅力が潜んでいる。
 日本の食品中で、なにが一番美味であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、と言いたい。東京でこそほとんどふぐを食う機会がないが、徳島、下関、出雲あたりに住んで、冬から早春の候にかけて、毎日のように、ふぐを食うことのできる人を私は真にうらやましく思う。
 去る一月、私は陶土の採取のために九州の唐津へ、そして天然のすっぽんの研究のために柳河へ行った。その帰途、ちょうど下関の大吉でふぐを食うことができた。例によってなんの味もないようであったが、やはり、ふしぎな魅力をもっていた。白味噌の汁加減はあまり感心しなかったが、そこはふぐの助けである。決していやではなかった。
 翌朝、眼が覚めるが早いか、もうふぐが食いたいと思ったが、都合で広島へ出た。広島と言えば、おのずと生がきを試みねばなるまい。生がきも日頃美味いものであるとしていたにもかかわらず、ふぐを食べた翌朝の口には、到底問題ではなかった。いかに生がきに満幅の好意を傾けて、食卓の上で、剥(む)いては食い、割っては食おうとも、その味は遂に舌端だけのものであって、人の心魂に味到する底のものではなかった。そこで夜を待って、ふぐを「ちり」にして味わい抜いた。
 そのふぐの味を、うなぎの蒲焼きの美味さ、まながつおの味噌漬けの美味さ、まぐろの握りずしの美味さなどに比較しては、全く味なきに等しいものであった。最初、びくびくものでふぐを食べた人たちが、すぐにもう「こんな美味いものを食べないという話がどこにあろうか」などと言うのも、実際、無理はないのである。
 すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無作の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。
 私は海から最高の美食の対象としてふぐを挙げることをためらわなかった。それでは山からはなにを――ということになるだろうが、差当って私はわらびと言いたい。わらびはもちろん取りたてでなければいけない。型の如くゆでて灰汁(あく)を抜き、酢醤油で食う。これが実に無味の味で、味覚の器官を最高度にまで働かせねば止まないのである。
 海にふぐ、山にわらび、この二つ、実に日本の最高美食としての好一対であろう。中国でやかましい燕巣の料理、すなわち、海燕の巣なるものも、日本のところてんを水に浸したようなもので、別に味はないが、これがなくては中国料理にその魂が抜けるという。燕巣のもつふしぎな魅力、それが次第に類を求めては、ふかのひれとなり、銀耳となるのであろう。日本と中国、その人間が求めて止まない味覚の窮極性というようなものは、これらの最高美食の対象そのものが示唆するように、そこになんとなく全一的な完了味を、その本来の味わいとするのではなかろうか。美食感覚へのこのすこしばかりの実証。
(昭和六年)

底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社

   1980(昭和55)年4月10日初版発行

   1995(平成7)年6月18日改版発行

   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用

教えて!gooより引用

魯山人のアンドレ・ディロン号の「桜」「富士」が見つかって、
展示も行われましたよね。
そこでずっと疑問だった事をお聞きしたいのですけど、
こういう貝細工が埋め込んであったり、金属の板がくっつけてあったり
という日本画は、何に描かれているんでしょうか?
ベースが紙なのか板なのか他の何かなのか、時々非常に気になってます。
ご存知の方、回答よろしくお願いします。
板だってどこかに書いてありましたよ。
魯山人は若い頃、板に字を彫って看板を作っていたので、慣れのある方法だったのだと思います。

象眼ということになるのでしょうか。
手法として裏付けはあるけれども、技法としては経験にもとづく独自のものだろうと思います。

魯山人の字を彫る速度は相当の物だったとのこと。
修復したのかどうか知りませんが、状態がいいので、長い航海にも耐えてちゃんと持ちが良いように、補修しやすいように、作ったのだろうとうかがわれます。

白崎秀雄の魯山人の伝記本にも記述がありましたが、内容覚えていないので、機会があったらご覧になってみてください。